ヒメアノール〜ネタバレ全開的雑感

何か欠けた人をやらせたら剛くんの右に出る者はいない的なことを言ってたのは岡田くんだったか。

前評判どおり、コメディとバイオレンスが絶妙なバランスで成り立っている映画だ。あれ?これはどの雑誌に書いてあったコメントだったかな。
 
剛くんのアイドルを逸脱した(敢えてこう書くけどね)演技で、ファンをやめるとか、途中で退場するとか、そんな話ももう珍しくなくなった。
 
でも。
 
この映画は、日常を描いたものだと思う。ごくごく「普通」と言われる、いわゆる芸能人とか有名人とか、飛び抜けて優秀とか、何かに秀でているというわけではない、「普通」な大多数の人たちのお話。
私たちの日常の中に、ヒメアノールは存在している。いじめとか、わけわかんない同僚とか、憧れのあの子とか、つまんない仕事とか、えっちとか、暴力とか、そんなピースがいっぱい詰まって。
 
 
森田のように、息するみたいに嘘をつく人っているでしょ。例えば、超高齢な方々とか。嘘ついてる感覚なんてなく。ん?ちょっと違うけど。
 
安藤さんみたいに、目を見て話せない人とか。優しいことを口では言いながら、ものすごく自分本位でそれに気がついてないみたいな。
 
岡田のように、自分の意思というのはちゃんとあるんだけど、そうだね、って言っちゃったほうが楽、けどなんか悶々としてる人も。
 
 
「おかあさーん、麦茶ふたつ持ってきて〜」
少なくとも森田は母親に甘えられる環境で育っている。少なくとも中学時代のこの時は。それから家庭的にどうなっていったのかはわからないけれど、岡田は森田の幸せな記憶の中にいたわけだ。岡田自身が気にしていたいじめ側に加担していたことよりも。
 
 
殺人鬼と言われているけど、腕っぷしが強いわけじゃないからカツアゲされたり。ちょっとパチンコで勝ってもそのザマで、期待しちゃいけないんだ、這い上がれっこないんだという絶望をずっとずっと積み重ねてきた。
 
ただ一つの成功体験が、ひとつめの殺人。自分を苛め抜いてきたヤツを殺した時の快感と達成感。その饐えた臭いを、普通と可愛いの間に敷き詰めた。森田剛の凄さは、アイドルのタブーとされるシーンにチャレンジしたとかそんな軽いものではなくて、本当にこんな人なんじゃないかと、彼のアイドル部分をよく知ってるファンでさえも錯覚するようなリアリティ。森田剛は消え、森田正一がスクリーンにいた。
 
ドラマの殺人シーンがお茶の間では食事中に普通に見られるのは、記号のように「殺した」ことがわかるからだ。そこには被害者の痛みも苦しさも伝わってこない。しかし、森田の殺人は、人を殺すってこういうことなのかと思うくらい音や空気や振動、感触までも伝わってくる。
 
 
折角自首しようと警察まで来たのに、「森田を殺そう」と囁く和草の婚約者久美子。彼女がダークサイドに堕ちなければ、あの時点で森田は捕まったはずでその後の殺人も起こらなかったはずなのだ。ちょっと前まで、和草の横領を咎めていたはずなのに、ひょいとラインを踏み越えてしまったことが、自らとその後の悲劇を生んでいく。
 
岡田だってそうだ。ユカを守るために森田と揉み合うわけだが、あそこで森田の首にかけた紐が切れなかったら。彼も森田と同じダークサイドに堕ちてしまっていた。久美子も岡田も、森田に手にかけたとしても、「あいつは悪い奴だから自分は正しい」と思うだろう。わたしだって、あのいじめっ子が殺されたとき、当然だと思ったもの。同じ穴の狢。
 
この映画の怖さは、「起こりうるかもしれない」怖さだ。
 
犯人がいて被害者がいて刑事がいて、というスタンダードなサスペンスではない、隣の人が殺されてるかもしれないとか、誰かに見られているかもしれないと周りを見回して、戸締りを確認したくなるようなリアリティだ。
 
凶行に及んだ後、すぐそばで食事ができる常軌を逸した状態であるのに、普段は全く負のオーラを感じさせない森田剛の凄み。
 
そして、自分は絶対に堕ちない、と思っている綱渡り。ちょいとつつけば、誰もが簡単に堕ちていく。
 
いろんな怖さが相乗効果となり波状攻撃を仕掛けてくる。
そして、最後に、殺人鬼だって生まれつきなんてことはないんだと気づかされる。正気と狂気のタイトロープだった森田の、幸せの記憶。
 
岳ちゃんも剛くんも、まんま中学生で違和感ないのはご愛嬌だよね。
 
原作も読んでいないし、映画も一回しかみていない。今度はもっと落ち着いてみられるんじゃないかな?かな?かな?
 
ちょっと相談してみる。自分と。
 
 
追記
 
それにしても、この上映館の少なさ!!
北海道とか3館しかない!!
興行成績が12位って凄いと思う。
この桁違いの上映館数で!